山間を走るローカル線に揺られ、会津若松、仙台、鶴岡へ
「駄菓子」に誘われ東北路
江戸時代、武士の上菓子に対して、庶民は自分たちのための駄菓子をつくり
暮らしを謳歌していた。味も姿も明るく元気な、そんなわれらが駄菓子の
世界を求めて、東北3市を巡るローカル線の旅に出かけた。
生まれも育ちも大阪の私は、山深く静かなイメージがある"東北"は、あこがれの地。そして駄菓子に対しても特別の感情がある。子供時代は買い食いは禁止。10円玉を握りしめて、どれほど近所の駄菓子屋に行きたかったことか。時は春。駄菓子王国・東北路へ、未知の味を求めて出かけよう。のんびりローカル線の旅がいい。
東京駅から新幹線で郡山へ。そこからは磐越西線の普通で、磐梯山の雄姿を楽しみながら会津若松へ。荷物を置く暇も惜しんで、まず会津若松城こと鶴ケ城へ。まだ桜の蕾は堅いが、小誌が発行される頃には満開か散り桜かしら、などと想像しながらそぞろ歩き。春とはいえ、風が吹くとひんやりする。
「北は寒いね」と話し、やはり戊辰戦争の、白虎隊の哀切極まる歴史の余韻を胸に満たして訪れたのが、会津駄菓子の老舗「本家 長門屋」さん。
大正末期築の、黒格子窓のどっしりした木造2階建て。引き戸を開けると、途端にさまざまな色彩や形が目に飛び込んできた。ピンク色の"だるま飴"、かわいい鳥の形の"とり飴"、青大豆のきな粉を固めてねじった"黄粉ねじり"、赤ちゃんの握りこぶしのような"握りおこし"、白い粉の下から薄紅色が見えるまあるい"梅干"……。40種近くが所狭しと並ぶ。形のおもしろさ、色の優しさ。どんな味がするのだろう? さっきまでのしんみりした気持ちが吹き飛んで、これもあれもと無心に欲しくなる。人の気持ちを引き立て、楽しい心持ちにさせてくれるのが駄菓子なのかと実感した。早速一口。原料はもち米、大豆、胡麻や黒糖などで、添加物は一切入っていないとか。飴もあんこ玉も、原料の持ち味そのものの、舌を優しく包む素朴な味わいだ。
創業は1848(嘉永元)年。幕府が弱体化しつつあり、諸外国が揺さぶりをかけ始めた頃である。この時代に藩主から、「庶民の菓子をつくれ」と命じられたのがきっかけだとか。
工場では平均24〜25歳の人たち10名ほどが、飴の煮え具合などに注意を払いきびきび働いている。実に清々しい。「駄菓子づくりは重労働で、腱鞘炎や腰痛になる。機械化をはかりましたが、やはり味がでないと、職人自らが手づくりを大切にしてくれています」と五代目当主・鈴木隆雄さんはうれしそうに語る。
会津の夜は、神明通りの蒲生氏郷の墓に近い居酒屋「麦とろ」で。おばあちゃんが、「今日摘んできたんだ」とザルに入れた瑞々しいふきのとうをうれしそうに見せ、息子さんだろうか店主が天ぷらに。旅人に対する会津人の優しさを、しみじみうれしく思った一夜だった。
創業300余年の仙台の老舗で、
駄菓子の歴史を紐解いた
杜の都・仙台は人口120万人、東北随一の大都市である。ここが、駄菓子ブームを興した地だ。昭和40年以降、アンノン族やディスカバージャパンのキャンペーンで旅情あふれる日本探しが流行してから、会津駄菓子も仙台駄菓子も素朴さゆえに人気を集め、各地の銘菓に昇格した。が、誕生した江戸時代そのままに五穀や黒砂糖を用いた、昔ながらのヘルシーな菓子であるのは言うまでもない。
ところで駄菓子が生まれたエピソードは、先の「長門屋」の話からして店の数だけあるに違いない。その多くが城下町に生まれたということがキーワードのようである。
江戸時代半ば、権力を握っていたのは武士。が、町民が経済力をつけ始めるとそれを不満とする武士が増えてくる。身分制度を維持するために、武士は白砂糖を使う上菓子を食し、庶民には白砂糖の使用を禁止。黒砂糖に稗や米くずなど"駄目"なものを使った菓子づくりを奨励した。上菓子に対して駄菓子なのだ。
しかし職人たちは、工夫と知恵を働かせて庶民の目や口を楽しませようと、職人魂を発揮したのは想像に難くない。
仙台にはさらに二つのエピソードがある。一つは塩釜に漂着した南京の軽業師が伝えたという「南京糖」が契機になったという説。そしていま一つは、仙台藩が保存食や兵糧としてつくっていた糒(ほしいい。もち米を蒸してから干したもの。残りご飯を洗って干したもの)が、時代が落ち着くにつれ在庫が増加。時折領民に払い下げられ、これを使って駄菓子がつくられた、というものである。
当地で一番古い駄菓子屋は「熊谷屋」さん。創業は1695(元禄8)年。それにしても創業308年とは凄い。
「江戸時代には飢饉で、菓子どころではないときもあり、第二次大戦では空襲で全焼。戦後は洋菓子に押されてどうなることかと。しかし代々当主は余所を見ず、転職しなかったということでしょう」
九代目熊谷光雄さんは淡々と語る。二人の息子さんも駄菓子づくりに携わっている、といううれしい話を聞いた。
仙台で駄菓子を語るとき、忘れてならないのは創業1885(明治18)年の「石橋屋」先代・石橋幸作さん。伝統を守りさらなる発展のために、『駄菓子のふるさと』や『みちのく駄菓子』など多数の書物を著し、また絵に残した。
当主・石橋佐吉さんは、「お茶会にも使われる、大人のふるさと菓子を目指しています」と、胸を張る。
かくして駄菓子の大きさは、昔に比べて小ぶりで品よくなってきたそうだ。
旅の最終日、表情豊かな
庄内駄菓子に歓声が上がった
仙台から山形へは仙山線、普通列車の旅。途中で「上り列車がカモシカと衝突して停止」のアナウンスが。あまりにも日常とかけ離れた放送にびっくり仰天。新庄、余目と乗り継いで、最終目的地鶴岡へ。創業元禄の鶴岡駄菓子の老舗「梅津菓子舗」さんを訪ねた。梅津善一さんは十代目。20種類以上の駄菓子を代々伝えられてきた方法で、黙々と一人でつくっている。取材日は"からからせんべい"を焼く日。これはせんべいの中に紙に包んだおまけが入っていて、振るとからからと音がするので名付けられた。
「昔は運徳煎餅とも言って江戸時代からあったんだけど、美味しくないからおもちゃを入れるようになったんだあ」と梅津さん。いやいや、小麦粉と水飴と黒砂糖で焼いたせんべいは、香ばしく素朴で捨てがたい味わいだ。でもおまけもうれしい!
"ボーロ"はかわいいのらくろの顔、きつねの顔をした"きつねめん"など、手に取るだけでわくわくするものが多いのは、地域の子供たちと密着してきたからだろう。取材時は旧暦で祝うお雛さまで、その祝い菓子の鯛や鮭の切り身なども、思わず笑ってしまうユニークさだ。
つくり手の心ばえを鮮やかに映しだしている東北三市三様の駄菓子は、まさに江戸時代から続いてきた庶民の味。いやこれはもう文化だ。子供の頃からの買い食い三昧の夢も満たされて、心がほっこりと温まった旅であった。
※dancyu2003年6月号では、さらにたくさんの駄菓子やお店の詳細、観光名所等についても掲載しています。ぜひご覧ください。
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